日本国領土 尖閣諸島
日本領土「竹島(Takeshima)」

 かつて尖閣諸島には私達日本人の祖先が住んでいました。他国の者が尖閣諸島で生活したことはありません。多い時には200名ほどが魚釣島の鰹節工場で働き、久場島でアホウドリなどの海鳥を捕獲していました。今も魚釣島にはその工場の跡地があり、多くの写真に記録されています。久場島にはその痕跡が残ると聞きます。いつかその写真を見つけたいと思っています。

※文中に「管理人」と表記されている部分がありますが、これはこのサイトの編集者の事ではありません。

探 険 時 代

魚釣島地名入り地図

この地図は黒岩恒氏が作成したものてす。

黒岩恒氏は沖縄県師範学校教諭。
明洽33(1900)年5月に、沖縄県那覇区在住古賀辰四郎氏は、その借区たる無入島へ向け、
汽船大阪商船会社汽船永康丸を派遣した。その時調査に従事したのが、
沖縄師範学校教諭:黒岩恒と理学博士宮島岩之助
奈良原岳の奈良原は当時の第8代沖縄県知事奈良原繁の名前をとったもの。
道案渓(どうあんたに)は探険に同行した八重山島司・野村道安氏の名前からとったもの。
永康礁は魚釣島と久場島の探険に使った永康
 

開 拓 時 代

以下はアサヒグラフ・昭和53年5月5日号
「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」
の記事(12頁?17頁)と
東京地學協會編「地学雑誌」第拾貳集・
明治33年自第百参拾参巻・至第百四拾四巻に掲載された
宮島幹之助の撮影した写真 、及びサピオ、八女市広報に
掲載された写真である。

尖閣列島の領有権を巡って懸案の日中条約交渉に暗い雲が影をのぞかせたのが、
今回の中国漁船団領海侵犯事 件だが、ここに明治明治時代以後、
多くの日本人が尖閣列島の魚釣島に住み着いていた証拠の写真が、
那覇市で 発見された。

(1) 鰹節工場と工場で働く者達の住居-1
出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」
写真に記された原文:魚釣島全景 10戸あまりの家がひとかたまりになっている。(12-13頁)
(2) 鰹節工場と工場で働く者達の住居-2
出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」
管理人:海に浮かぶ船が上の写真と同じ形であるから同じ時に撮られたものだろうか。
(3)  カツオブシ工場前での記念写真
出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」(14頁右下)
原文:「当時の住民達が総出でカツオブシ工場前で記念写真をとった」

※3:-管理人より-
 写真には50名ほどlの人間が写っている。これは写真が鮮明でなく判別しずらいのでおよそ の数である。
 高橋庄五郎著「尖閣列島ノート」に中にこういう記事がある。「ここに一枚の写真がある。一九七八年五月五日号『アサヒグラフ』は,尖閣列島は無人 島ではなかったという「証拠の写真」を八枚掲載した。それは古賀善次未亡人花子さんがもっているものだが、そ のなかの一枚は筆者が一九七一年に入手したものと全くおなじものである。筆者のもっている写真は,一九〇一年二月に黄尾島で生まれたという伊沢弥喜太氏の長女真伎さんのもっている明治四十年頃の写真である。そし て、おなじ一枚の写真を古賀花子さんは魚釣島のものだといい,伊沢真伎さんは黄尾島(黄尾嶼=久場島)のもの だという。この写真には事務所の責任者として、日の丸のポールのところに伊沢弥喜太氏がおり、その右六人目 のところに白い着物を着て帽子をかぶり、ステッキをついているのが古賀辰四郎氏である。」
 雑誌の写真では分からなかったが、スキャンして拡大したら、左端に5名ほどの子供達の姿が見える。その横には女性が9名ほど写っている。 (女性たちはまかない婦たちであろう。何かの本で子供たちが数名丁稚として雇われていたという文章を読んだことがあったが、どうやら事 実であったようだ。
(ようやくその何かを見付けた。望月雅彦 「古賀辰四郎と大阪古賀商店」『南島史学』第35号の中の「南島史学会 1990年」?古賀辰四郎年譜?」にあった。平成21年10月05日)
 一九〇八年五月、恒藤博士、列島を探険す。
 同時に宮城、福島二県より七歳十一歳の貧児十一 名を丁年迄の契約にて雇入れ渡島せしむ。
とある。一九〇八年とは明治41年である。貧児とは何だったのだろう。家を失った子供達のことを言うのだろうか。東北の困窮は昔から長く続いてのだ。

(4)  船付き場での記念写真
出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」(14-15頁)
(5)  カツオブシ作りの作業風景
出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」(15頁)
原文:「カツオブシ工場でのカツオブシ作り」
(6)  明治三十年代に島で暮らす人々

出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」(16頁上

※4 管理者:中央下の猟銃を持つ人物が古賀氏ではないかと思われるが、あくまで推察である。古賀辰四郎氏は沖縄に初めてピストルを持ち込んだと言われる。未亡人の花子さんは辰四郎氏のことを、「大変なハイカラさん」と語っておられる。この写真の人物は腰に帯ではなく銃の弾帯をまい ており、下の 鰹節工場の入り口に立つ古賀辰四郎氏の写真の帯も帯にしては小さく、白色系統の和服に弾帯をまい ているようにも見える。また帽子は西洋のものの様である。上の(4)「カツオブシ工場前での記念写真」の 添付した高橋氏の指摘では、「白い着物を着て帽子をかぶり、ステッキをついているのが古賀辰四郎氏で ある」と書いておられる。あの写真では小さくてよく分からないが、これらの情報から写真の人物は古賀氏 の可能性は高いと言っていいだろう

(7)  カツオブシ工場の入り口と古賀辰四郎
出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」(17頁)
管理人:
原文では「カツオブシ工場の入り口  立っているのは原辰四郎さん」とあるが、 「原」ではなく「古賀」の間違い。
第11管区海上保安庁の右写真には門が写っているが、古賀氏が立っているのはその左の門のようである。
(11)  カツオ節工場の前で記念写真を撮る古賀商店の面々-2

 管理人: 上のアサヒグラフのものと同じ写真である。両方とも古賀善次未亡人花子さんが持っていた同じ写真だろうか。それとも違うものだろうか。1917年と言えば 大正7年だろうが、その頃は既に尖閣諸島での古賀商店の活動は衰退期に入っていたと思われる。「石垣市発行の八重山写真帖より」とあるが、これは高橋庄五郎著「尖閣列島ノート」に中に書かれている、「ここに一枚の写真がある。
一九七八年五月五日号『アサヒグラフ』は,尖閣列島は無人 島ではなかったという「証拠の写真」を八枚掲載した。それは古賀善次未亡人花子さんがもっているものだが、そ のなかの一枚は筆者が一九七一年に入手したものと全くおなじものである。筆者のもっている写真は,一九〇一 年二月に黄尾島で生まれたという伊沢弥喜太氏の 長女真伎さんのもっている明治四十年頃の写真である。そし て、おなじ一枚の写真を古賀花子さんは・・・」とある。私には明治四十年頃、つまり1907年頃というのが正しいように思える。

宮島幹之助の撮影した写真

以下三点は東京地學協會編「地学雑誌」第拾貳集・
明治33年自第百参拾参巻・至第百四拾四巻に掲載されたもので、である。
(写りが良くないのは複写を更にスキャナーで取り入れた為である)

(12)  黄尾嶋西南側古賀村の人家

宮島幹之助撮影
管理人:
実は当時いかなる理由からか魚釣島と久場島(黄尾島)が間違って認識されていたらしい。
そのことは奥原氏や高橋氏らが示されている。今までの資料によると住居があった島は
魚釣島・久場島・南小島である。
(12)  黄尾島波止場上涯下
「小屋の側に白く見ゆる日章旗の風に翻れるなり」と書いてあるが、当時の写真技術では日章旗が
はためく瞬間を捉えることができなかったのだろうと、妙に時代の推移を実感した。
(13)  黄尾島波止場
船 着 き 場
古賀氏が10年かかって作り上げた水路
尖閣諸島の開拓跡と開拓時代(11) 原題:船着き場  写真:(アサヒグラフ・昭和53年5月5日号)
魚釣島の工場の平面図にはダイナマイト小屋があり、ある資料では水路をダイナマイトで作ったとあったが、
古賀辰四郎氏の未亡人の花子さんが、「船着き場をつくるのに十年かかったそうです。機械を使わないで
硬いサンゴ礁を砕くのですから。」と記者に語っておられると資料もある。とすれば、これが事実なのだろうか。
(14)  サンゴ礁をくりぬいた船着場のサバニ
写真:九州大学・長崎大学合同調査隊報告書(撮影昭和45年12月)
(15)  波と格闘しながらサバニの陸揚げ
写真:九州大学・長崎大学合同調査隊報告書(撮影昭和45年12月)
(16)  尖閣諸島の開拓跡と開拓時代
    

<いつから中国は、尖閣諸島の領有権を主張し始めたのか>

 昭和43年(1968)9月、日本、台湾(中華民国)、韓国の海洋専門家が中心となり国連アジア極東経済委員会(ECAFE)の協力を得て、東シナ海一帯にわたって海底の学術調査を行なった結果、東シナ海の大陸棚に、石油資源が埋蔵されていることが正式に確認された。
 当時、中国(中華人民共和国)は国際連合に加盟しておらず、文化大革命の影響で国内が混乱していたため、共同調査に加わる余裕すらなかった。この共同調査が契機となって、台湾が71年4月に、共同調査に参加しなかった中国までもが同年12月に、相次いで尖閣諸島の領有権を主張し始める。
 尖閣諸島の領有権問題は、東シナ海の大陸棚に石油資源が埋蔵されていることが確認されたことによって急に注目を集めた問題である。
 明・清代の文献のなかにも中国の領土であったという記録を見出すことはできない。戦前・戦後を通じて中国も台湾も尖閣諸島が日本領土であることに異議を唱えたことは一度もなかった。

<尖閣諸島を日本領土と認識していた中国と台湾>

 中国政府が尖閣諸島を日本固有の領土であると公式に認めていたことを裏付けるものとして、58年に北京の地図出版社が発行した「世界地図集」がある。そのなかに掲載されている日本図の尖閣諸島には「尖閣群島」という日本の島嶼(とうしょ)名が使用されている。
 その後、中国が領有権を主張し始めたのと期を同じくして、「尖閣諸島は『日本領土』」との表示があった中国で発行されていた地図や教科書のほとんどが回収されるなど、それまでの認識を故意に隠蔽している。
 53年1月8日付の中国共産党機関紙「人民日報」資料欄では、「尖閣諸島は沖縄の一部」との記述がある。中国政府が尖閣諸島を日本領土と認めていたことを示す決定的な証拠と言えるだろう。


 沖縄県石垣市役所には上に示した感謝状が保管されている。 領有権をめぐっては、中国、台湾などから対日批判が高まっているが、この史料が中国や台湾の主張を崩す有力な資料となるのは間違いない。 史料は中華民国9年( 1920年、大正9年 )5月20日、中華民国駐長崎領事が中国漁民救助に対する 「 感謝状 」 として、当時の沖縄県石垣村( 現、石垣市 )村民に贈ったものである。 内容は 「 中華民国8年( 大正8年 )の冬、中国の福建省恵安県( 現、泉州付近 )の漁民、郭合順氏ら31人が遭難し、日本の尖閣列島( 現、尖閣諸島 )にある和洋島( 魚釣島のこと )に漂着した。 石垣村の玉代勢孫伴氏( 後の助役 )が熱心に看病し、皆元気に生還することができた。 こうした看護は感謝に堪えず感謝状を贈る 」 というものである。
 領事氏名の馮冕(ひょうめん)の下に 「華駐長崎領事」 の公印と年月日の上に 「中華民国駐長崎領事印」 とある。 注目されるのは、この漁船が遭難した当時、中華民国政府の外交当局が、感謝状の中で尖閣諸島のことを 「日本帝国八重山郡尖閣列島」 と明記している点である。 このころまでに、中国が領有権の主張をした事実がないことはもちろん、むしろ積極的に尖閣諸島を日本領と認めていた何よりの証拠であり、第一級の史料価値がある。


以上の写真や文献資料等は関係のサイトからの転載です。
特別了解は得ておりませんが、日本国民の為是非とも知っていて欲しいと思い、
関係者の方々にはご理解頂けるものと信じております。
日本領土「竹島(Takeshima)」